「ッ……!」
指先に針を刺したような感覚が起こり、半分まで皮を剥いた林檎がまな板に落ちる。指には赤い、鉄分を含んだ玉。
料理なんて慣れないことはやるんじゃなかった。そんな思いで、ため息を一つ吐いていると横で夕飯の作業をしていた先生が私の指に触れてきた。
「深雪、大丈夫ですか?」
「あ、はい。手が滑ってしまって」
私は痛さを押し殺し、触れてきた先生のすらりとした手から逃げるように手を引っ込める。
今晩の夕飯はカレー。一般的な固形のルーで作るカレーに林檎を入れようと提案したのは、私。
うっかりしていたとはいえど、指を間違えて切るというヘマをしたくらいで、大好きな先生を目の前に慣れないことをして、と幻滅されるのは一番嫌だった。
「兄さん、カレーできたの?」
「………!」
「秀彦」
私と先生だけだと思っていた空間に、すぐそばで聞こえた声に私はびくり、とした。
振り向くといつの間にかソファーに座っていた秀彦さんが、ちょうど私の後ろにいたのだ。
「まだですよ。あとは林檎を入れるだけです」
「ふぅん……」
「もう少し待っていてください」
そういう先生に秀彦さんは掛けていた眼鏡をぐいっと持ち上げると、私を見てうっすら笑った。何かを探り見るような好奇入った冷たい目をこちらに向けて。
(早く血を洗わなくては……)
心臓の音が聞こえる。切った指先を覆った手のひらがまた血で濡れる気配がした。 視線を感じるほど血が止まらないように感じて私は怖くなり、顔を逸らす。
「ねぇ、いけない子だよね。こうやって誘うなんて」
「あっ………!」
しまったと思った瞬間、秀彦さんの強い力で腕を捕まれた。とっさに手を引こうとしたが、私の力では適わない。
秀彦さんの口元に私の赤く染まった指が近づいたかと思うと、赤い舌のぬっとした感覚と舐められたあとの冷たい空気が指先に触れる。
滑稽に感じさせない、滑らかな動作。流れる血を美味しそうに。少しも残らず。舌に絡め取って。まるで肉をゆっくり食すような……。
性格は違うはずなのに外見が同じ所為か、まるで先生が私の指を舐めているような錯綜感を覚えて顔に血が上るのを感じた。
「秀彦、止めなさい」
顔を逸らそうか迷う私に先生は秀彦さんの腕を掴み、声に凄みを出した。そんな様子に秀彦さんはまるで待っていたかのようにくすり、と笑う。
「僕に舐められる前に、兄さんが舐めれば良かったじゃない。ほら、見なよ。こんなに熱を含んだ目、してる」
私の指先を名残惜しく離そうとしない秀彦さんと、そんな秀彦さんの腕を掴む先生の視線が交わる。
「……やめて、ください」
「ん? 僕には駄目なの?」
「私は貴彦さんのものなんです。血もこの体も、ましてや体のほんの一部でも」
そうだ。私はあの日から、彼のために命を共にしていこうと決意した。誰にも入る隙なんて与えはしない。
………そこで、意識がとぎれた。
(ん……?)
うっすらと目を開けると、見慣れない天井が視界に入った。粗末な作りで出来た部屋はいかにも安宿、という雰囲気だ。
「おや、起きたんですか?」
「貴彦さん……?」
私はそこで、貴彦さんの細くて逞しい手が私の髪を撫でていることに気づいた。
寝顔を見られていた。そう考えにいきついでしまうと、私はいてもたってもいられなくなり顔を貴彦さんの方とは反対へ逸らしてしまう。
「明日は早いですから、ね」
一瞬。重さが私の方に傾いたかと思うと、頬に優しい感触が当る。
思わず、顔が火照るのがわかった。
「は、い」
今、貴彦さんの方を向けば、きっと彼は穏やかな顔を浮かべている。私はそんな予感がした。
(この人は幸せでずっといれるだろうか。)
これからのこと。彼の未来。
………それから考えようとして、止めた。
「一緒に寝ましょう? あまり長く起きていると、貴彦さんも辛いですよ」
先の見えない未来なんてどうでも良い。私は私に出来る最善を尽くすだけ。私はそう思って、貴彦さんの方を振り向く。そんな私を貴彦さんは抱き寄せる。
「そうですね。もっともです」
貴彦さんの温もりが近くなる。波打つ鼓動や呼吸。どれも愛おしい。ただ今だけは贖罪を忘れさせてくれる安寧のような気がして、私はゆっくり目を閉じた。